2009年5月6日水曜日

エジプト三大美女といわれているのは
1-ネフェルティティ 女王

エジプト新王国時代の第18王朝のファラオであったアメンホテプ4世の正妃。


2003年6月16日ディスカバリーチャンネルによって、ネフェルティティ女王のミイラはヨーク大学の英国人研究者のチームは12年間の調査の結果、明らかになりました。 
ネフェルティティ女王とされているミイラは、1898年にフランス人考古学者ビクトール・ロレさんは
アメンヘテプ2世の墓(王家の谷35号墓)の隠された部屋から発見されました。
そのミイラは状態がよくなかったので、考古学者はそれを「Younger Lady」 若いレディというミイラ番号61072」としてカタログに載せただけで、大した注意を払いませんでした。 
1907年にそのミイラと、一緒に見つかったミイラ(少年のミイラと、「Elder Woman」高齢者の女性と呼ばれたミイラ)と一緒に、その部屋の中で写真に撮られました。 
この3体のミイラの写真は、ほとんど注目されませんでしたが、英国チームの12年間にわたるネフェルティティ探索の間に、英国人エジプト学者ジョアン・フレッチャ-はその写真を見つけて、その写真のミイラとベルリンにあるネフェルティティ王妃の胸像との間の類似に気づきました。

エジプト考古局の許可を得て、2002年6月、アメンヘテプ2世の封印された部屋はふたたび開かれ、英国チームによる調査が開始されました。

その調査はすべてミイラに被害を与えない調査手段でした。 
フレッチャー氏がこのミイラがネフェルティティであるという結論に達した手がかりは以下のとおりでし
た。
・王族に見られるミイラ処理の仕方
・左の耳たぶに2つのピアス穴(これはネフェルティティと彼女の娘だけに見られる特徴であるとの意見)
・ぴっちりとした額飾り(イクナトンとネフェルティティの壁画に見られるような)
・剃られた頭(イクナトン一家は全員頭を剃っていた)
・ミイラの近くで見つかったヌビア風のカツラ
・ミイラの右腕が王杓を持った形で胸を横切るような形にされていたか?
・ミイラの顔が鋭利なもので突き刺されている(ネフェルティティに恨みを持つものの犯行
・ただし損傷を受けたのはミイラになってから)
・ミイラと胸像に共通した白鳥のように細く長い首
・ミイラの年齢(フレッチャーの分析によると19歳から30歳の間の女性)以上の点からフレッチャー氏はこれがネフェルティティのミイラであると断定をしました。
しかしながら、もちろんさまざまな反論もあります。

その最たるものは、「なぜこのミイラ発見の発表が、ディスカバリーチャンネルで8月17日にネフェルティティのミイラを探すフレッチャー氏に関する2時間のドキュメンタリーの制作発表と同時に起こったのか?」ということでしょう。

この英国チームの資金は、ディスカバリーチャンネルによって一部提供されているため、彼らは番組の視聴率を上げるために誇大宣伝をしているのではないだろうか?との疑問があります。

また、エジプト学者からもさまざまな反論や疑問が出ています。

ピアス穴が二つあるのはネフェルティティだけではない、ミイラの近くで見つかったというカツラは記録を見るとYounger Ladyの近くではなく他のミイラの近くで見つかったので彼女のものとは断定できない、胸を横切る王家のミイラの腕の配置になっていたというが、記録ではミイラの腕は古代の墓泥棒により、ミイラ本体から引きちぎられていて、本来の腕の位置は確認できない、Younger Ladyのミイラは別の調査では16歳の少女のものである、首が細くて長いからネフェルティティだとするのはどうか・・・などさまざまです。
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2-ネフェルタリ 女王

ネフェルタリ 女王は三大美女の一人で、 Nefer とは「美」という意味だそうであるが、ネフェルタリは本当に美人である。
ネフェルタリは確かに死ぬまで夫、ラメセス2世に愛され、手厚く葬られておりますが、結果としてはせっかく子供を二人も生んでいるのに歴史の舞台に登場することなく、第二王妃の子がその後のエジプト王家を継いでおります。
子供の幸福を願う母としてのネフェルタリとしては必ずしも幸福な生涯を全うしたとは思えないのです。

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3-クレオパトラ 女王


よく知られているクレオパトラは「クレオパトラ7世」のことで、プトレマイオス12世の娘です。

クレオパトラは父プトレマイオス12世の遺言によって、弟のプトレマイオス13世と共同統治をしていました。

しかし、その3年後(紀元前48年)幼いプトレマイオス13世の後見人であった教育係テオドトス

・陸軍司令官アキラス
・宦官ポティノスの陰謀によってクレオパトラは追放されてしまいます。 
そんなときクレオパトラが目を付けたのがカエサルだったのです。

彼を味方にして、プトレマイオス13世に共同統治を進言し、彼ら反対派とアレキサンドリア戦争を起こします。

プトレマイオス13世は死に、14世と共同統治をすることとなります。 

その後、クレオパトラはカエサルとの間にカエサリオンをもうけますが、エジプト思想との出会いによって王制を確信したカエサルは、ローマ帝国建国による独裁政権から市民の反感をかって、その後、ブルートゥスに暗殺されてしまいます。

あの「ブルートゥス、おまえもか!!」の場面です。 

クレオパトラは今度は、カエサルの腹心の部下だったアントニウスを味方にエジプトの支配者となり、カエサリオンを王位継承者とし、エジプトの領土を回復しました。

しかし、アクティウムの海戦でアントニウスが敗れると、クレオパトラも死を覚悟し紀元前30年頃、コブラに首をかませて自殺してしまいました。 

こうして、プトレマイオス朝が滅び、エジプトはローマの属国となりました。

ローマ時代の始まりです(ギリシャ時代と合わせてグレコ・ローマン時代という)。

実質的には、このときをもって、古代エジプトの歴史が幕を閉じたと言ってもいいでしょう。血は違っても、古代エジプトの思想を受け継ぎ、また、それを再興しようとした人々がいたからです。

しかし、クレオパトラ 女王はエジプト人と思っていない人が変わりに第4王朝時代のネフェルトという御姫は変わりにしています。

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ラーホテプ と ネフェルト
夫はラーヘテプの左に並ぶ対の倚像(石灰岩製)の頭部。ラーヘテプはスネフェル王の息子と考えられている。1871年、メイドゥムの崩れピラミッド近くのマスタバ墳(ベンチ状の墓)から発見された。カイロ博物館所蔵。
イサーム ガラール
ESSAM GALAL

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